空蝉
<創作> <読み切り> <恋愛> <掌編/文字数:778文字>

公開日:2008/7/05
書き下ろし
「あれ、もう行くの。少し早いんじゃないかな」
 そんな言葉をかけられるのもお構いなしに、私は乱れた髪を整えて上着を羽織った。鞄を手に取るとそのまま玄関まで歩いていき、ノブに手をかける。
「またこうして逢おうね、貴女との時間結構楽しいから」
 はだけた胸元を隠そうともせず、若い彼が見送りに来る。そんな彼に一瞬怯んだ後、急いで扉を開け外に出た。自分の中で心臓が早鐘を打つのを感じた。勢いのままエレベーターまで走り乗り込むと、止めていた息を一気に吐き出した。そして、誰にも見られていないことを確認し、その場で密かに私は泣いた。

 玄関のノブに手をかけ、逡巡した後ベルを押す。しばらく待ってみるが反応がない。仕方なく私は鍵を取り出し、扉をそっと開けた。リビングまで上がると、「彼」がソファに腰掛けていた。
「……ただいま」
「ああ」
 気のない返事。彼はこちらを見ようともせず新聞を広げていた。諦めてそのまま二人の部屋に戻ろうとし、思い返して彼にこう尋ねた。
「ねえ、あなた。私、最近少し変ったとか思うことない?」
 ネックレスを外しブラウスのボタンに手をかける。外では、季節外れの蝉が忙しなく鳴いていた。

「貴女ってギャップがあって可愛いよね」
 先程まで合っていた「彼」が囁いた言葉が頭の中でリフレインする。
「だって、まるで女の子のようになくんだもの」

「……変った? お前のどこが変ったっていうんだ」
 相変わらずこちらには目もくれない彼。黒い感情に支配された私は、もういいと言い残し寝室へと引き篭もる。鞄を壁に投げつけベッドに倒れ込み、私は声を上げて泣いた。どれ位そうしていただろうか。西日が窓から差込、泣くのにも疲れた私は眩しさを感じてカーテンを閉めようと窓の方に歩いていった。ふと、ベランダの隅の方に蝉の抜け殻があるのを見つけた。

 もう、あれだけけたたましく聴こえていたなき声はなくなっていた。

<END>