そして、私は地獄へと来た

<創作> <読み切り> <ファンタジー> <短編/文字数:20,866文字>

公開日:2016/06/12
アンソロ再録(アンソロ名「北陸アンソロジー」 第2回金沢文学フリマ初出)
お題:北陸3県(石川・富山・福井)のいずれかをテーマとした文学作品


 神様、私だけの神様。どうか願いを叶えて下さい。
 私の願いは――。

 ◆◆◆

 全く、何がどうなっているんだ。
 俺は、テーブルと椅子が悉くひっくり返って破壊されている食堂の真ん中で立ち竦んだ。普段は山小屋の一つとして利用されているこの施設も二月には閉鎖されており、人間が誰一人として巻き込まれなかったのが唯一の救いか。
 いや、今はそんなこと考えている場合じゃないだろう。
 俺は、すぐ目の前にいる人物の只ならぬ気配に圧倒され、声を上げられないでいた。その人物は、身体の至る所に怪我を負い肩で息をしている。にも関わらず、殺気を込めた眼差しで俺のことを容赦なく射抜いてくるのだ。
「緊急事態だと聞いてはいたが、これは一体どういうことだ。センポク?」
 知らない。寧ろ俺が訊きたい位だ。
「ええと……市内電車に乗ろうとしてですね、中町の駅辺りで、何か得体の知れない、こう、黒い霧みたいな物に襲われまして、それで」
「人と会話する時はぐだぐだ物事を並び立てるな。簡潔明瞭にするなど、相手の理解力というものを慮れ」
 無理です、クタベ先輩。貴方のそのプレッシャーの前には誰だって委縮するんじゃないでしょうか。
 俺は、心の中に浮かんだそんなツッコミを相手に悟られないようにしつつ、頭を深く下げて詫びを入れた。最初は怒り心頭だった先輩も、やれやれといった感じで溜息を吐くのが聞こえてくる。
「まあ、お前が無事でいただけでも今回は良しとしよう。襲ってきた奴の正体が気にかかるが……」
 取敢えずほっと胸を撫で下ろす俺だったが、先輩の次の言葉で再び凍りつく。
「センポク、後ろに連れているその少女の霊はどうした?」
 ぎこちない動きで背後を振り返るとそこには、十代後半と思しき少女の霊が、戸惑った様子で俺達のことを見ているのだった。長い黒髪をそのまま下しているが無造作という感じではなく、大人しげで可愛らしい子だ。霊には人一倍馴染み深い俺だが、この子と最近知り合いになったという心当たりはない。
「あの……ここは何処なんでしょう? 私はどうして此処にいるんでしょうか?」
「センポク……まさかお前、下界から無理やり地縛霊を引き剥がして、ここ立山に連れて帰ってきたのか?」
 そんな強引な真似をした覚えは一切ない。だが、俺の釈明は結局先輩には受け入れては貰えなかった。

 その後に起きたことは、正直思い出したくもない。

 ◆◆◆

 まず、落ち着いて聞いて欲しい。

 俺の名はセンポク・カンポク。さっきのやり取りから察しの通り、俺は本来人間じゃない、蛙の妖怪だ。今取っているこの姿は、下界で行動する際に使う、いわば仮初のものだ。
 この術を俺に授けてくれたのが、先程の怖い人、クタベ先輩だ。あ、『人』って今言ったけど、その正体は俺と同じ妖怪と呼ばれる存在。本当はクタベ師匠、と呼ぶべきなんだろうけど、あの人曰く『もう周りから大将だなんだと騒がれるのに嫌気が差した』て言うもんだから、俺はあの人を先輩と呼ぶことにしている。
 俺が普段何をしているかって? それは、人間の霊が無事彼岸に辿り着けるように導き、時には悪しき物どもから守ることだ。元々俺の一族は砺波地方で興ったんだが、最近霊に付き纏う厄介な存在が此岸に溢れるようになってきてさ。そうした連中から霊魂を守り抜くには、どうしたって今以上の力が要る。だから俺は、あらゆる妖怪や事象に対して豊富な知識を持つと名高いクタベ先輩に、こうして無理を言って弟子みたいなことをやらせて貰っている。
 今俺達がいるのは、県内でも霊験あらたかと謳われる立山だ。ここは元々先輩の縄張りでもあるんだけれど、冬の間は人目に付かないようにこうして閉鎖された山小屋をちょっと拝借して静かに過ごしている。具体的な位置は室堂、標高約二千五百メートル辺りだ。
 え、じゃあ何で富山駅近くの市街地から、こんな雪深い冬の立山に一瞬で辿り着いたのかって? それは――。

 俺は、初めて出会った少女の霊に自分達のことを説明していたが、最後の質問にどう答えようかと悩み、先程その市街地で己の身に起こったことを思い出していた。

 ◆◆◆

「先輩、またです。また霊魂が、地獄へ堕ちていくのを阻止できませんでした」
 人目に付かぬよう富山駅脇の商業ビルのトイレに籠って、俺は歯軋りしながら、手元に握り締めた紙にそう呻いた。
 これで五人目だ。いずれも学生だったが、俺が見ていた限りそこまで大きな悪事を犯したようには見えない、誰もごく普通の人間だった。ついさっきまで関わっていた男の子の、地獄に引き摺りこまれる際の絶望し切った顔が未だに瞼の裏に焼き付いている。
『そう気落ちするな、センポク。お前はよく頑張っている。これだけ霊魂が立て続けに地獄へ呑まれるということは、何か良からぬことが下界で起きているのかもしれんな』
 俺が握っている紙の中心にある朱印部分が、先輩の声がすると同時に波紋を打つがごとく波打っているのが見えた。所謂『牛王札』として知られるごく一般的な護符に先輩が手を加え、こうして会話できるようにしてくれた。とどのつまり、これは俺と立山にいる先輩を繋ぐ携帯電話のような物だ。
 下界で何か良くない事、か。
 俺はリュックの中身を覗き込んだ。心当たりは全く無かったので、取敢えず俺は、さっき地獄に堕ちた子の生前の所持品を掻き集めていた。手帳、写真、引退する前部活動で使っていたシューズなど思いつく物は全てだ。ただ、これらはあくまで借りたものであって、遺族にかけた幻術の効力が長期間保たないのもあるから一か月以内で返さなきゃいけないのだが。
 その中から手帳を取り出して、折り畳まれた紙が落ちたのに気づき、それを開いて読んでみる。

 ~~☆貴方の人生ガンガン上向き 幸せの願掛け人形☆
 使い方はとっても簡単。
 予め聖なるパワーを吹き込んだ香り土に、自分の血を混ぜてよく捏ねます。次に、それをお人形の中にセットして、付属の紐で首を縛りましょう。
 後は、ワンちゃんをお散歩させるのと同じ要領で一緒に外をお散歩します。願掛け人形は貴方の身代わりです。踏まれれば踏まれるほど苦難に耐えパワーを溜め込みます。なるべく人通りの多い所を選んで歩きましょう。千人もの人間に踏んでもらえたら、後はそのお人形をお部屋などに飾りましょう。沢山の人に踏まれた分だけ、お家に飾る際は大切にしてあげてね~~

「何だこりゃ? 何かのトリセツか?」
 奇妙な文章に首を傾げながら、俺はそれをリュックの中に再び仕舞った。先輩に訊けば、何か解るかもしれない。
「先輩。今回あった出来事を詳しく話したいんで、先ずは立山まで戻っても良いですかね?」
 俺は、手元の護符にそう問いかける。
『ああ、是非そうしてくれ。転送の準備はしておくから、此方に来る時には合図として、渡してある蛇の眼土鈴を鳴らすように』
「……先輩、前から言おう言おうとは思っていたんですけど」
 俺は、重い口を開いた。
「蛙の妖怪である俺に、蛇にまつわる物を持たせるのは、正直どうなんでしょう」
「蛇そのものではないのだから構わないだろう。それに、この土鈴には魔除けの効果もある。もしお前が危機に陥ったとしても、その身を守ってくれることだろうよ」
「ですけど……」
 俺は食い下がろうと試みるが、先輩が『ああそうだ』と話題を強引に替えるので、結局いつもの通り諦めることにした。
『もし時間が空いている様なら、使いを頼まれては貰えないだろうか? 西町にあるいつものやつだ。最近甘い物が恋しくなってきてな』
 ああ、アレか、月〇界ね。
「分かりました、買ってきますよ。じゃあ、用件済ませたら合図送るんで、よろしくお願いします」
『ああ、待っているぞ』
 どことなく上機嫌とも取れる返事を最後に、先輩との通信は途絶えた。
 俺は個室の扉を開け、周りに人がいないことを確認する。転送の時もそうだが、呪術を用いる時はなるべく周囲に影響が出ないよう、こうして場所を選ぶ必要が出てくる。さて、西町での買い物が終わったら、立山への転送はどこで頼もう。
「……やっぱここしかないか。仕方ない、帰りは市内電車で富山駅に一旦戻ろう」
 俺は溜息を尽きながら、富山駅から延びる市内電車の改札口へと向かった。

「あー、くそ。行っちまったかー」
 土産を買った俺は、西町駅から出発していく市内電車の車両をその少し手前から眺めていた。次が来るのは約五分後だから、それまで待つとするか。
 そう思い、駅に向かう俺だったが、あるものの存在に気が付き足を止める。
「グルルル」
 犬だ。それも、かなり大柄な奴。犬の吠え声には退魔の力が宿っているとされている。万が一それが、俺自身にかけている人化の術を解くようなことにでもなれば――。
 犬は無論リードでしっかり繋がれている。しかし、それを握っている飼い主を見ると、何ともひ弱そうだ。こいつ、犬が暴れた時にしっかり押さえつけておけるのか。
 次の次に来る車両、つまり十分以上もここでただ待つのも面倒だと感じた俺の脳裏に、ある考えが浮かび上がる。そうだ、北に少し歩けば、環状線の中町駅があるじゃないか。時刻も丁度いい頃合いだし、そこまで行くか。
 俺は、市内電車の路線図を頭に思い描いていた。富山駅から南側に市街地が広がり、そこを取り囲むように環状線が走っている。俺が今いるのは西町で、路線図で言うと、丁度環状線が作る輪の南東隅よりちょっと飛び出した辺りだ。そこより県道沿いに北上していくと、三路線が集まる荒町駅があるのだが、それよりだいぶ手前側に、中町という駅が存在する。環状線の車両の方に乗り込めば、あの犬と同伴することもないだろう。
 と、考えている間に着いたぞっと。
 俺は横断歩道を渡ってスロープを登り、誰もいないホームのベンチに腰かけた。
 ぞわ。ずるっ、ずるずずずずずず。
 何だ、この得体の知れない気持ち悪さは!
 俺は思わずベンチから飛び上り、後ろを振り返る。だがそこには何もなく、ただ普通にベンチがあるだけだ。何もないってことは、この寒気、もしかして……。
 俺は、両の手で影絵の狐をまず形作り、右手の方を裏返して互いの人差し指と小指を重ね合わせた。そしてくっつけていた親指と中指薬指を解き、『きつねの窓』を形作る。両の手には今、小さな隙間が空いている。ここから世界を覗くことで、魔性のものの正体を見破ることができる。
 『きつねの窓』を覗き込んだ俺は、そこから見えたものの姿に思わず言葉を失った。
 ベンチの所に、女が一人佇んでいるのが見えた。『女』と判断したのはスカートを穿いていたからで、その恰好はお世辞にも綺麗とは言えなかった。いたる所の布地は破れ、所々血が滲み出ている。だが特に頭部の損傷は激しく、顔は酷く潰れて変形しどこの誰だか全く判別できない状態だった。肩から下げた古びた学生鞄から、俺は辛うじて、そいつが生前学生だったのだろうということを悟る。
「神様……私だけの神様」
 そいつはそう呟き、立ち上がると鞄から何かを取り出した。見るとそれは、首に紐を括り付けた、何ともみすぼらしい布人形であった。
 突如広がる黒い霧。同時にその場にむせ返る、金属臭と肉の腐敗臭。咄嗟の事でそれをモロに吸い込んでしまった俺は、強烈な頭痛と吐き気に見舞われた。
 俺は慌てて元来た道を引き返そうと、手すりに掴まりながらスロープを降りていく。だが女が、左右に体を揺らしつつも俺の後を追いかけてくる。そいつが腕に抱えた奇妙な形の布人形に目をやると、ますます色味の濃くなる霧を内から噴出していた。
 このままじゃやられる。
 俺は、咄嗟の判断で、ズボンから例の護符と蛇の眼土鈴を取り出した。そのまま腕を大きく振り、土鈴を只管鳴り響かせる。控えめで素朴な音だったが、女がどういう訳だかその動きを止めたので、俺は必死で土鈴を振りながらそいつと距離を取った。これが魔除けの鈴の威力か。
『センポク、いつもより早いな。どうした?』
 護符より、先輩の声が聞こえてきた。
「せんぱ……早く! たすけ……」
 俺は、込み上げる吐き気を抑え込みながら、先輩に救助を求めた。
『待っていろ、直ぐに此方へ連れて行く!』
 先輩の掛け声とともに、俺を中心とした半径一メートル程の半透明の球体が形成される。周りの景色が水面のように揺らぎ、空間が捩じれていくのが判る。もうすぐで転送の術が完成する。切り抜けられるか。
「うわあああ!」
 女が一際大きな奇声を上げたかと思うと、突如俺の視界から消え失せた。あれ、一体どうした。
 どかぁぁぁん!
 あまりの衝撃に、俺は思わず尻餅をつく。その弾みで空を見上げるような姿勢となった俺は、自分の目の前に映るものに悲鳴を上げた。
 先程の女が、宙に浮いたまま手足を広げ、俺のことをじっと見ていた。
 ……いや、落ち着け。こいつは浮いているんじゃない。不可視の壁に阻まれて、その上に丁度乗っかっているという感じだ。
 俺は、クタベ先輩の転送術が発動中だったことを思い出す。この流れからいって、恐らくこいつはあの場から真上に高くジャンプして俺を取り囲む結界の上から飛び掛かってきた、ということなんだろう。
 女が両手を結界に無理やり押し付け、それを抉じ開けて中に入ろうとしてきた。何て奴だ。
「先輩、まだですか!」
 俺は、眩い光を放つ護符に対して声を荒げていた。だが、向こうから返事は無い。朱印部分に変化がないところをみると、結界の保持だけで手一杯ということか。
 女が更に結界を押し破り、しつこく俺を捕えようとしてきた。俺は、手にした土鈴をじっと見つめると、それを握り締めていざという時に備える。

「ぎゃあああ!」
「これでも喰らえー!」
『センポク、開いたぞ。早く来い!』

 女が結界の最後の一層を破って中へ押し入るのと、俺が魔除けの土鈴を奴の額へ向けて叩きつけるのと、クタベ先輩が離れた場所の空間を一つに繋ぎ終るのと、その三つの瞬間がほぼ同時に重なった。
 俺が女へと叩きつけた土鈴は、ぶつかって砕け散る瞬間、凄まじいエネルギーを放って奴の体を弾き飛ばす。更に、その影響は俺を取り囲んでいた結界にまで及び、空間の歪みが通常時のそれより遥かに度合が強くなる。
 ぶちぃ。
 何かが捩じ切れる音がして、黒い物が俺に向かって飛んでくる。
「此方だ!」
 先輩の呼ぶ声に導かれ、俺はその方向に足を向け全速力で走り出す。いつもと勝手の違う展開に恐ろしくはなったものの、兎に角立山に戻ることだけを考えた。
 歪んだ結界のトンネルを一気に駆け抜け、ようやく見慣れたあの山小屋の食堂が視界に入る。俺は、トンネルの膜を突き抜け一気にそこへと滑り込み、そして――。

 ◆◆◆

 ……今更ながらよく、あそこから生きて帰れたよな。
 そこまで事態を思い出して、俺は、自分の顔が青ざめていくのを感じた。深く溜息を尽く俺を、少女の霊が覗き込んでくる。
「大丈夫ですか? だいぶ具合悪そうですけど」
「え、ああ、うん。一先ずは平気」
 俺は手を振って彼女に答える。そう言えばすっかり忘れていたが、この子一体、どこで紛れ込んできたんだろう。さっきのあの悪霊女との乱闘でだいぶ空間が捻じ曲がってしまったからな、周囲にいた普通の霊も巻き込んでしまったのかもしれない。
「悪いな、こんな山奥にまで連れ込んじまって。さっきも言った通り、俺は死者を守る妖怪センポク・カンポクだ。これも何かの縁だろう、お前さんが無事成仏できるように最後まで付き合う積りだから、よろしく」
 そう述べて彼女に握手を求めた時、俺はようやく、大事なことを忘れていたことに気が付いた。
「そういやお前、名前は何ていうんだ?」
 俺がそう問いかけると、彼女は困ったように顔を俯かせた。
「御免なさい、自分の事覚えていないんです……ヒナ……これが多分名前だと思うんですが」
 参ったな、記憶がこれだけ薄れているっていうことは、長いこと現世に身を置いて魂をすり減らしたか。このまま放っておくと、この子は彼岸への道を見失いかねない。
「じゃあ、これからは『ヒナ』って呼ばせてもらうわ。元気を出せって」
 俺は、ヒナという少女の霊を優しく撫でて励ました。
 彼女は、申し訳なさそうではあるものの、少しはにかんだ笑顔を返してきてくれた。

 ◇◇◇

 神様、私だけの神様。もっと力強くなって下さい。そして、私の願いを、どうか叶えて下さい。

 ずるっ、ずるずずずずずず。ぐじゃあ。
 これで残りあと一人。私の神様、願掛け人形を踏んでくれたら――。
 私は紐を手繰り寄せ、人形を抱え上げる。
「嘘!」
 私の大事な願掛け人形は、顔の一部が破れて中身が零れてしまっている。どうして? あのお店で買った時、『これは絶対に壊れません』って店員が言っていたじゃない。
 私はふと、昼間の事を思い出した。
「あのニキビ面の男め……!」

 ◆◆◆

「センポク、この薬を飲んでしばらく休んでいろ」
「……はい」
 参ったな。あの悪霊女に襲われてからというもの、五感も霊力もめっきり使い物にならない。特に嗅覚に至っては、腐った物とそうでない物の区別が全くつかない状態で、今も賞味期限切れの牛乳を飲んでこのザマだ。直ぐにでもヒナのことや、これまで地獄に呑まれた子達のことを調べたかったのに、三週間もこうして体調を崩して身動きが取れないでいる。情けねえ。
「センポクさん、大丈夫ですか? 荷物なら私が部屋から持ってきますから」
 ヒナが心配そうに横から俺の顔を覗いてくる。世話する側とされる側がすっかり逆転したこの状況に、俺は苦笑いを返すしかなかった。それでも、嫌な顔一つしないなんて、なんてこの子は良い子なんだろう。
 ヒナが一旦食堂から出て行ってしばらくの後、小さ目のリュックを携えて戻ってくる。俺がヒナに会う前に付き合いのあった霊の所持品を入れた、あれだ。遺族にかけた幻術の効果も考えると、いいかげん調べて返さないとまずい。
「悪いな、色々と動いてもらって」
 俺は、リュックを自分の隣にある椅子に置いてもらうよう頼んだ。リュックを開けると、白いビニール袋が目に入る。しまった、先輩に頼まれていた土産、あの騒ぎの後一旦リュックに入れておいたの、すっかり忘れていた。
「センポク、具合はどうだ?」
「ああ先輩、丁度良かった。この間買ってきた菓子、渡すのすっかり忘れてすみません。俺は良いんで二人で食べて下さいよ」
 食堂に再び入ってきた先輩にそう告げると俺は、ビニール袋を手に取り、中に入っている箱を出そうとした。
 じゃり。
 途端、右手に慣れない違和感を覚える。右手を引き抜くと、指先や手のひらが黒々とした土で汚れていた。この間の騒ぎで、ビニール袋に土でも入ってしまったんだろう。
「あら。手を拭く物持ってきますね」
 ヒナが俺の手を覗き見て、台所へと足を向けた。
 その時だった。
 俺の手にこびり付いた土は、瞬く間に大きな瞳を複数携えたザトウムシの様な蟲へとその姿を変化させた。蟲は、次から次へと湧き出して俺の掌をあっという間に覆い尽くし、更にその一部はその姿を変え髪の毛のように細長くなり、ヒナの方へと伸びて彼女の体を絡め取った。
「嫌あぁぁ!」
「呪か。小癪な!」
 先輩が大きく跳躍し、瞬時に俺達の間に割り込むようにして俺とヒナを繋ぐ黒い束を一気に両腕で切断する。そして両手を肩の高さまで上げると、大きくそれらを横へ払う動作をする。
 ギィイ!
 窓も全て閉めきっている筈の空間に一陣の風が舞い上がる。それと共に、俺の右手やヒナに取りついていた蟲の体が全て木端微塵に破壊され、やがて宙へと消え失せていった。
 一瞬の出来事に、俺もヒナも呆然とするしかなかった。
「二人とも下がれ。その袋が気になる」
 先輩に諭され、俺はようやく席を立った。ヒナを連れて、机から少し離れた所へ彼女を誘導する。
 先輩が気合を一閃して、その右腕を振り下ろす。右の拳に溜められた霊力が袋に触れると同時に炸裂し、袋の中に潜んでいた残りの蟲どもも押し潰す。そうして机の上に残ったのは、千切れたビニール袋の残骸と無残にも潰された和菓子の箱、それに、あの正体不明の黒土のみとなった。
 先輩が右手で土を掬い上げその臭いを嗅ぐと、顔を思い切り顰め舌打ちするのが聞こえてくる。珍しいな、先輩がこんな態度を取るなんて。
「センポク。お前、とんでもないものと関わりを持ったな」
 いきなり何を言い出すんだ。俺は訳が分からず先輩の元へと駆け寄った。
「先輩。今の蟲、正体に心当たりがあるんですか?」
「まあな。尤も今回ばかりは、予想が外れていて欲しい、というのが正直なところだが」
 俺はますます混乱した。そんなにヤバイものが此岸に存在するのだろうか。
「お前も富山に生まれた妖怪なら、その名を一度は耳にしたことはあるだろう。ここにあるのはほんの僅かな残滓だが、こいつは……人形神(ひんながみ)だよ」
 俺は、目の前が真っ暗になるのを感じた。

 人形の神と書いて、ひんながみ。
 人形に願掛けをしてそれを祀る風習は日本全国に多く存在する。人形神もその一つで、古くは砺波地方を発祥とする。
 だが、こいつは他の願掛けとは決定的に異なる部分がある。それは、人々の純粋な願いや祈りを込めるのではなく、欲望や怨念といった負の感情を凝り固めるところだ。
 まずはその製法。七か所の村にある墓地からそれぞれ土を集め、それを人の血で捏ね上げる。次に、己が神と崇めるものの形を作って人形とする。そしてそれを人通りの多い所に放置して千人の人間に踏ませて念を集める。そうして人間が持つ負の気を徹底的に凝縮させて完成した人形神を祀ることで、あらゆる願いを叶えてもらう。
 そして、こいつの真に恐ろしい所は、願いを叶えるのに大きな代償を伴うことだ。一度でも祀ろうものなら、作った本人がその人形神に一生憑りつかれてしまい、死の間際は非常に苦しむことになる。そして死してなお、人形神に憑りつかれたままで、やがては地獄へと堕ちるという――。

「実在したのかよ……」
「私も、この目で見るのは初めてだがな。この土から漂う人の血と屍体の朽ちる特有の臭いで判った。センポク・カンポクは元々、死者が出た時その家の軒先に真っ先に向かい霊魂を守ってきた妖怪だ。だから、お前が持つ嗅覚は他の妖怪と比べて格段に鋭く、そして繊細だ。人形神を形作る土に直接触れれば、その感覚が狂わされるのも無理はない」
 先輩は、ここしばらく不調の俺を慮ってだろう、そう言ってくれた。
「それと、もう一つ言わなければならないことがあるんだがな」
 先輩が顔を上げた。その視線の先を追うと、ヒナの姿があった。
「蟲どもがやたらヒナに執着していた。誰の仕業か分からないが、恐らくヒナは、人形神に憑りつかれている。このままだとこの娘の魂、確実に地獄へと呑み込まれるぞ」
 食堂に、重苦しい沈黙が下りた。

 ◇◇◇

 神様、私だけの神様。壊れてしまった可哀想な神様。直すからねえお願い、私の願いを叶えて下さい。

「開けて下さい」
 私は、願掛け人形を買ったあの店の前に立っていた。三週間ここに通っているというのに、店はずっと閉まったままだ。嘘吐き。願掛け人形は壊れないとか言っていたのに、私の神様、壊れちゃったじゃない。
「お願いします、人形の修理を依頼したいんです。開けて下さい。開けて、開けてよ! ねえ、開けてって。……開けろ、開けろって言ってんだろ!」
 私は何度も中へと呼びかけたが、返事は相変わらずないままだった。
 結局この日も私は、一日中シャッターを叩き続けるばかりだった。

 ◆◆◆

 このままだと、ヒナが地獄へ堕ちる。

 その事実は、俺とヒナ二人を打ちのめすのに十分だった。
「もう嫌だ……!」
 ヒナは、衝撃の事実を先輩に告げられて以来、ずっとこうして個室で泣き続けている。
「もういい。私、どうせ地獄に堕ちるんでしょ? 何やっても無駄なの……放っておいてよ!」
 俺は大層困り果てたが、ふとあることを思い出した。そのまま彼女の隣に座りこみ、次の言葉を彼女に告げた。

「よく聞けよヒナ。お前はもう、『地獄』に来ている」

 ヒナの眼が驚きで見開かれる、が、俺は怯まず言葉を続ける。
「日本には元々、山の上に霊が集まり、霊界に通じていると考える山岳信仰が存在する。そして立山には、地獄谷や血の池地獄みたいに、まるでこの世のものとは思えない風景があちこちに存在しているんだ」
 そして俺は、この言葉を彼女に送った。
「この立山こそ、此岸に存在する地獄だとする考えが成立するならさ。ヒナ、お前はもう『地獄』へと来ているんだよ。人形神に関わった者は全て地獄へ逝くっていうが、ここの『地獄』は少なくとも、お前に苦しみをこれ以上与えたりはしない。だから怖がるな。時間はかかっても、俺と先輩二人でお前を何とかしてやる」
 そう俺がヒナに告げると、彼女がやがてくすくすと笑いだした。ホッとした。やっぱり素直な良い子じゃないか。
「そうだ、ここの『地獄』には、こんな場所もあるんだ」
 そう言って俺は一旦個室に戻り、一冊の本を手に戻ってきた。そして、ある頁を彼女に見せる。白いチングルマの花が草原一杯になって咲き乱れる様子の写真がそこには載っていた。
 ヒナは、目尻に涙を浮かべながら穏やかに微笑み返してきた。
 それに俺も微笑み返そうとするが、ふと大事なことを思い出した。
 ――貴方の人生ガンガン上向き 幸せの願掛け人形――。
「ヒナ、ちょっとそこで待ってろ!」
 そう言うなり俺は駆け出して食堂へと急いだ。そこには先輩が一人、先程の机で探索の術を行使していた。だが、浮かない表情を見ると、蟲を放った大元の人形神本体は未だ見つけ出せていないようだ。
「先輩! もしかしたら、人形神本体の在処、見つけられるかもしれません」
 俺は興奮しながら、リュックからあの折り畳まれたトリセツの紙を取り出した。

 ◇◇◇

 神様、私だけの神様。その千切れた体は何処へ行ってしまったの?

 私は、中町駅のベンチに座り込んで溜息を漏らした。仕方なく人形の破れた箇所をガムテープで補強してみたけど、これで私の大事な人形が直ったとは到底言えず、願掛け人形が完成することは無かった。
 ……疲れたな、少しだけ休もう。

 いつの間にか、夢を見ていた。澄み切った青空の下に広がるのは、草原一面に咲き乱れる白くて可憐な花。
 そこに行ったこともないくせに、私はその風景を見て、いつの間にか涙を零していた。

 ◆◆◆

「さて、来てはみたものの、これはどうするか」
 俺は、人形神を販売していた店へとやってきていた。だがそこはシャッターが全て下ろされており、このような貼り紙が一枚貼られていた。
『セレクトショップハッピーライフ富山店はこの度閉店します。ご愛護ありがとうございました』
 ここまで来て、むざむざ引き下がってやる積りは無い。それなら俺にも考えがある。
 俺は、人間から元の蛙の姿へと変化し、換気扇の隙間から事務所内へと侵入する。書類棚の隙間に忍び込み、店の関係者が戻ってくるのを今か今かと待ち構えていた。

 半日が経ち、陽も傾いてきた。店の連中来ないじゃないか……まさか、とっくに夜逃げしたのか。
 ガシャガシャ!
「開けて下さい。このお店で、願掛け人形を買った者です。修理をお願いしに来ました。お願い、開けて!」
 お願いという割には、やたらと乱暴にシャッターを揺する音が建物内に響き渡る。声からすると若い女のようだが。
「いい加減開けろって言っているだろう。ふざけんじゃねえぞオイ!」
 おいおい、一体どんな奴だよ、おっかない。俺は棚から抜け出し防犯カメラのモニターを覗き込む。
「……へ?」
 映像には何も映っていない。だが、実際にこうして大声で喚きたてる誰かが店頭にいる。ひょっとして。
 俺は販売エリアへと移動し、再度人型に変化して『きつねの窓』を両手で形作りシャッター越しに相手の姿を視た。
「……嘘だろう」
 シャッターを乱暴に叩いていたのは、中町で俺を襲ってきたあの悪霊女だった。

 ◇◇◇

 神様、私だけの神様。今度こそ、直してみせます。

「開けろよ! 中にいるのは判っているんだよ、早く私の願掛け人形を直せよコラ!」

 ◆◆◆

「開けろよ! 中にいるのは判っているんだよ、早く私の願掛け人形を直せよコラ!」
 まずい、俺の存在に勘付いているのか。
 俺は、身体中の血が一気に凍りつくような感覚を覚えた。脳裏に、先日のあの事件の恐怖が蘇る。あの時は偶さか、先輩の転送術があったから空間を捻じ曲げて無事逃げ仰せられたんだ。弱った今の俺の力じゃ、到底太刀打ちできる相手じゃない。

 ――少なくとも、お前に苦しみをこれ以上与えたりはしない。だから怖がるな。時間はかかっても、俺と先輩二人でお前を何とかしてやる――

「……」
 俺は、ヒナと交わしたあの約束を思い出していた。
 そうだよな、何とかしてやるって言ったもんな。考えようによっちゃあ、ヒナを付け狙う人形神を探し出す手間が省けたじゃないか。このチャンスを活かさない手は無い。
「お客様、これまで大変申し訳ございませんでした!」
 俺は、シャッター越しでも相手に聞こえるよう大声を張り上げた。
「願掛け人形の修理の件、誠意を以て承らせて頂きます。ですが、当店は只今閉店整理のため、店員が多く出入りしている状況でございます。お手数をおかけして誠に申し訳ありませんが、十九時以降にまたお越しいただけませんでしょうか? それまでに、修理担当の者を呼び寄せますので」
 シャッターが乱暴に揺らされる音が、ふと止んだ。
「……本当? 本当に、直してくれるの?」
 良かった。俺の事を、この店の店員だと信じ込んでいるみたいだ。
「ええ。それで、宜しければお客様のお名前を頂戴したいのですが」
 俺は、焦りを悟られないよう必死で演技を続けた。
「……十波です。漢数字の十に、津波の波と書いてとなみと読みます」
 十波、それがお前の名前か。
「かしこまりました。十波様ですね。それでは、担当の者に引き継がせてもらいます。何度も御足労をおかけして申し訳ございませんでした」
 俺が十波に詫びを入れると、奴は何も言わず、店頭から離れていく音が聞こえてきた。一応『きつねの窓』越しでもその後ろ姿を確認し、ようやく俺は人心地つけた。
 危うかった。冷静に考えれば、姿を見せずにクレーム対応する店員なんている訳ないんだが、奴がそれに気が付かないままでいてくれて助かった。
 俺は、再び事務所へと戻った。壁に掛けられた時計を見やると、現在の時刻は十六時になろうとしていた。奴が再びここに来るまで、残り三時間。
 ズボンのポケットに手を突っ込み、俺は、あの牛王札を取り出した。
「クタベ先輩、頼みがあります。今夜、人形神と決着をつけます」

 ◇◇◇

 神様、私だけの神様。ようやっと、願掛け人形を直す目途が立ちました。

 十九時まで残り三時間。長いな。どこで時間をつぶそうか。
 別にそこを目指していた訳ではないけれど、私は、いつしか市内電車の中町駅のホームに立っていた。
『これでも喰らえー!』
 私の脳裏に、一週間前の悪夢が蘇ってくる。思い出しても実に腹立たしい。何やら訳の分からない怪しい術で私を苦しめるばかりか、よりにもよって、私の大事な願掛け人形を――。
 そこまで思い出して、私はふと、さっきの店員の声が、人形を壊したあの男のそれと非常に似ていたということに気が付く。
「……まさか、ね」

 ◆◆◆

「センポク。あまり硬くなるな、相手に感づかれる」
 先輩にそう諭され、俺は深呼吸をして気持ちを静めようとした。因みに今の俺の外観は、普段のニキビ面の青年ではなく、ちょっと太った中年の男性となっている。先輩の術のおかげだ、これで十波に気づかれる心配も減る。
 俺は、後ろにいるその偉大な先輩を背中越しに見やった。そこにいるのは長身痩躯の美丈夫――ではなく、その額から長い角を生やし威厳を纏う一匹の白い大きな獅子。それこそが『クタベ』先輩の正体だ。
「大丈夫?」
 獅子の背の後ろから、ヒナが顔を覗かせてくるのが見える。が、今の彼女は顔や体の至る所にびっしり魔除けの護符が貼られていて、蓑虫の様だと俺は思った。可哀想だが仕方ない。
 室内に甲高い金属音が響く。先輩が予め張った結界に、呪力を有する存在が侵入してきた証だ。
「それでは、くれぐれも気を付けるんだぞ」
 先輩がヒナを連れて急いで奥の事務室へと下がるのを見送った俺は、人形神の持ち主である十波が店内に入ってくるのを今か今かと待ち構えた。

 手筈はこうだ。十波が来店したら、店員のふりをした俺がそれを受け取り、奥の事務所へと持って行く。このフロアには予め先輩が施した魔除けの術が至る所に張り巡らしてある。それで奴の動きを封じつつ、先輩が人形神の浄化を行う。
 危険は承知だが、いつかは奴と決着をつけなければいけない。ならば、早いこと最善を尽くすだけだ。
 全く、あんな無邪気な子の魂を呪うだなんて、十波は一体どんな酷い奴なんだ。

 扉を開けて、一人の若い女がこちらへ向かってくる。十波は、中町で会った時と同じ格好をしていたものの、その服はどこも破れてはおらず、また、顔も潰れてはいなかった。
 あれ、こいつ、どこかで……?
「十波です。人形の修理をお願いします」
 十波は酷く焦った様子でカウンター越しに俺に迫った。その気迫に思わず圧されそうになるが、本来の目的を思い出し人形を出すように彼女に促す。それを了承した彼女が鞄に手を突っ込むが、ふと俺の方に視線を戻して見つめてくる。
「あの、どうされました?」
「……いえ、別に」
 気付かれた? 見た目と声は変えている筈だぞ。
 彼女はどこか憮然とした様子で視線を鞄の中に戻し、人形を探している。
「お願いします」
 十波がようやく人形をカウンター上に置いてくれた。
 妖怪である俺の眼には、呪の黒い蟲が無数に人形の表面上を這いずり回っているのが見てとれる。
 力が増している……。早いとこ手を打たないと。
「確かに、うちの商品ですね。それではお預かりさせて頂きます」
 俺は覚悟を決め、予め護符を仕込んだ手袋を嵌めて呪を防ぎつつ、人形を箱に入れた。顔の一部分が破れており、ガムテで無理やり補強してあるのが見える。きっと、最初の事件で俺の転送術が発動された際、空間ごと捩じ切られたんだろう。
「お客様、奥の方で詳しく調べさせていただきますので、一先ずそちらの椅子にかけてお待ち下さいませ」
 俺は、人形を箱に入れそれを持つと急いで事務所の方へと駆け込んだ。

 ◇◇◇

 神様、私だけの神様。

 私は、中年の店員に薦められた椅子には腰かけず、立ってそのまま待つことにした。考え過ぎか。まさか、私の大事な願掛け人形を壊したあいつが、この店にいる訳が――。
 フロア全体が眩く光り、私は思わず目を閉じた。体中に電流が流れたみたいな痛みを覚え、その自由が利かなくなる。特に、椅子に流れる力が大きいようで、火花が飛んでいる。
「騙しやがったな……一度ならず二度までも!」

 ◆◆◆

「先輩、急いでください!」
 扉を後ろ手に閉め、俺は事務所の中心に駆け寄った。
 床には複雑な文様が描かれており、その陣の中心近くに坐する先輩の前に、俺は回収した人形神を床に置いた。ちょうど、陣の中央にそれを据える形だ。
「ヒナ、待っていろよ。もうすぐでお前を成仏させてやれるからな」
 それが合図だった。俺は自分だけが陣の外へと下がり、先輩が続けて複雑な呪文を唱えていく。窓と扉は全て閉めきっている筈なのに、その空間内に不自然な空気の流れが巻き起こる。やがて、人形からあの蟲みたいな呪が引き剥がされ、どす黒い霧と化しては掻き消えていく。
 どうか、このまま無事に終わってくれ。

「何しているんだよ、貴様ら!」

 激しい破裂音と共に事務所の扉が吹き飛んだ。ぶつかる直前でそれを回避した俺が見たものは、それまでの想像を絶する姿の十波だった。
 そいつは、全身をどす黒く染めその表面を大きく波打たせていた。目をよく凝らすと、十波の表面には一部の隙間もなくびっしりとあの蟲が犇めき合っている。いったいどれ程執着心が強いんだよ。
「……そこにいたんだ、探していたよ。私の大事な願掛け人形」
 十波は、ヒナの姿を認めると、ぞっとするほど甘ったるい声で彼女に語りかけた。その言葉が終わるや否や、十波の体から黒く細長い髪の毛の束が一斉に吹き出し、中央部を襲う。それらを避けようとした先輩だが、あまりの多さに動きが追い付かず、呪文詠唱が一瞬中断される。
「っ、しまったぁ!」
 人形を囲んでいた結界の威力が弱まり、瘴気が勢いを以て外に噴出してきた。その衝撃波をもろに喰らい、俺と先輩は壁に強かに打ち付けられる。痛みで体の自由が効かない。
 十波は、怯えて動けないヒナに向かって、体表に這いずる蟲を容赦なくけしかけた。そいつらは束になってヒナへと襲い掛かり、瞬時にその身を取り囲んでしまう。彼女に貼られた退魔の護符が蟲を焼いてはいくものの、いかんせん数の差がありすぎる。
「ヒナぁー!」
 蟲は完全に彼女を喰らい尽くしたようで、そこにヒナが存在していたという痕跡は、最早どこにも見られなかった。あいつを守ってやると誓ったのに。
「これでようやく実現する」
 蟲が人形の中へと戻っていくのが見える。十波の手に握られたその人形は、壊れていた筈なのにガムテの補修跡など最初から無かったように完全な姿を取り戻していた。
「私だけの神様。どうか、願いを叶えて下さい」
 十波が陶然とした表情を浮かべながら人形をその胸に抱くと、思わぬことが起きた。
 人形神は大きく膨れ上がり、瞬く間に黒い繭へとその形状を変化させる。そして十波は、その繭の中に自らの体を沈めて行った。奴の体が完全に繭に飲み込まれると、繭はその全体から腕のようなものを無数に生やしてきたのだった。

 ◇◇◇

 神様。私だけの神様。やっと私の手元に届いた。これでようやく、私の願いを叶え――。

 待って、『私』の願いって、何だったっけ?

 暗く深い沼の底みたいに淀んだ世界に一人浮いたまま、私はずっとそれについて考えていた。
 私はどうしてここにいるんだろう。私が叶えたかったことって何なのだろう。そもそも、私は一体どこの誰なのだろう。
 私は、沼の底に沈んで行った。

 ◆◆◆

「センポク、よく聞け」
 先輩がその巨体を引き摺って傍まで近づいていたことにも、俺は全く気が付かないでいた。慌てて振り返ると、俺の耳元に先輩が口を寄せ、掠れた声で囁くのが聞こえてくる。
「このままでは我々は、この人形神に喰われてしまうだろう。最後のチャンスだ。一か八かだが、お前に私が持っている残りの霊力を全部注ぎ込んで回復させる。すかさずあの中に飛び込み、内側から人形神を跡形もなく破壊しろ。それ以外、我々が助かる道は無い」
「いや……無理です。出来ないですよ。だって俺、ヒナのこと、救えなかったし」
 泣くのを必死に堪えながら、俺はその提案に反対した。だが、白い獅子は苦しそうに喘ぎながらも、俺から目線を外さず睨みを利かせてくる。
「ならば猶の事、あの子の敵はお前が討つべきだろう。あの子の魂が、そのまま薄汚い人間共の欲望なんぞに食い尽くされてしまっても良いと言うのか? 気をしっかり持て、センポク・カンポク!」
 そう檄を飛ばされ、俺は自らの役割を思い出した。

 俺の本来の役割は、彷徨える死者を無事彼岸まで守り導くこと。無垢な魂に群がるあらゆる悪意の類を退けること。

 ヒナ……本当に御免な。
「泣言抜かしてすみませんでした。お願いします、先輩!」
 俺は、決意を込めてそう宣言した。先輩はふうと大きく息を吐き、両前脚を俺の胸へと乗せてきた。そこから光の流れが脚を伝って俺の体へと流れ込んでいく。
 やがて、光の奔流が収まり、その全てが俺の体内に取り込まれると、先輩がゆっくりと脇へ倒れ込んでいく。
「先輩!」
 獅子が小さく唸りを上げる。
「私に構うな、とっとと行け!」
 その言葉に俺は改めて人形神へとゆっくり向き直り、大きく深呼吸をした。
「待っていろ、これ以上好きにはさせねえ!」
 ともすれば震えそうになる膝を強く叩いて気合を入れると、今度は迷わず巨大化した繭へと駆け出し、その中へと飛び込んでいった。

 ◆◆◆

 巨大化した人形神の中は、まるで淀んだ沼が如く、仄暗く息苦しい状態だった。俺は堪らず人化の術を解き、蛙姿でそこを漂う。髪の毛ばりに細くて長い藻のような物が辺り一面に浮いており、俺を捉えようとしてくる。
 底を覗いて、思わず俺は仰け反った。
 そこには何やらとてつもなく大きい黒い何かが蠢いていて、それが時折白くて尖った歯を剥き出しているのが見えた。
 この異常な寒気、覚えがある。
「喰われるなんざ冗談じゃねえ!」
 俺は伸びてくる藻を避けながら、どうにかして奴を破壊しようと策を練った。底にいる人形神が俺に向かって大きな泡をいくつも吐き、それらが俺の視界を封じてきた。それらをどうにか避けようとして、俺は泡の一つに思わず手を突っ込んだ。

『雛子、またてめえは学校に行かなかったのか! 学校から教師がわざわざうちに見に来たんだぞ』

 え?

『十波ってさ、いつも何か同じ長袖服着て変だよね。目つきだって悪いし、ヤバくない?』
『うわ、十波がうちらのこと見てるよ……てめえ何ガン付けてくんだよ?』

 何やら激しく言い争う声がそれに続いて聞こえてくる。時折何かが殴られたり壊れたりする音もそれに混じり、笑い声がそこらに響き渡る。それらが遠ざかると、女性の啜り泣く声が耳に届いた。
 十波のものだった。

 それらの声に気を取られた隙に、俺は藻に囚われてしまった。しかし人形神の口から沸き立つ泡は収まる気配が無く、寧ろその数を増していく。逃れようのない俺はそれらをもろに浴びる形となり、その度に、十波の辛い過去を覗き見ることとなった。最後に一際大きく、そして黒い泡に触れた俺は、聴覚だけじゃなく視覚までそれに乗っ取られてしまった。

 俺の目の前に今見えるのは、便座に置かれた願掛け人形製作キット。
 人形神の作り方を読んだ十波は、土が入った袋を開けて一旦便座の蓋に置くと、自身の左腕の裾を捲り、隠していた手首の包帯を解いていく。
 そこは無数の切り傷によるどす黒い瘡蓋で覆われており、俺は思わず顔を逸らそうとした。
 だが、『俺』自身の自由は当然効かず、十波は淡々と人形神を拵えていった。
『お願い、私だけの神様……どうか、お願いを叶えて下さい……』
 先程から視界がどことなく左右に揺れて安定せず、ピントも合わない。十波はやがてトイレから出て、足元をふら付かせながらも市内電車へ乗り込む。彼女は、肩で息をしながら座席に座りこみ、市街地へと向かっていく。
『……かみさま……わたしだけのかみさま……』
 乗り込んでからも終始彼女は呟き続け、中町駅でようやく降りた。立っているのもやっとの状態なのだろう。十波はしばらく手すりに掴まってその場を動けないでいた。
『ねがいを……かなえて』
 その一言で十波が横断歩道へと歩き出した、その時だった。全身を激しい衝撃が襲い、視界が天地逆転した。そのままコンクリートの地面が迫り、何かが潰れるような嫌な水音が響いたかと思うと視界は暗転し、そのまま何も見えなくなってしまった。その瞬間、微かだが確かに、彼女の呟きが俺の耳に届いた。
『――いきたい――』

「……」
 俺は必死で『自分』の瞼を開いた。今、俺の目の前に広がるのは淀んだ沼のように暗い世界と、辺り一面に伸びきっている細長い藻の一群。底の方を見やれば、そこには人形神が相変わらず悪夢の泡を周囲に撒き散らしており、その身から伸ばした髪の毛のような藻を俺に巻き付け、俺を引きずりこもうとしているのが見えた。
 俺は、深く息を吸い込んだ。そのまま一直線に、底へと向かっていく。そして、俺はわざと人形神の口の中へと飛び込んでいった。

 ◆◆◆

 もしかしてと、直感が働いた。もしかしたら、人形神の内側に飛び込めば、こいつを破壊できる術があるかもしれないと。
 だが、体内に飛び込んだ俺が見たものは、闇の中剃刀を手に自らの体を構わず切りつけて泣き叫ぶヒナの姿だった。十波が着ていた服を身に纏っており、その長髪を下していなかったら、十波と殆ど見分けがつかない。
「……そうか。ヒナ、お前、本当の名前は『雛子』って言うんじゃないか?」

 ここにきて俺は、一つの可能性に思い当った。
 十波が死んだ後、その魂は既に人形神に喰われかけていた。此岸を彷徨う内に中町で俺と出会い、俺が色々やったことで人形が空間ごと千切られた。と同時に、その魂も一部が剥がれ落ち『ヒナ』になったんじゃないかと。

「もう嫌だ! 痛いのは嫌だ、怖いのも嫌だ。このまま消えてなくなりたい……」
 肩を震わせ小さくなるその姿は、とても世間に恐れられる呪いの人形神の核とは思えないほど、酷く惨めで弱弱しかった。……考えてもみれば当たり前だ。彼女は、元はと言えばごく普通の女子高生だったんだから。

「そう簡単に消えるなよ」
 気が付いたら俺の口は自然とそう言葉を紡いでいた。
「誰かに望まれているから生きているだとか、ゴミみたく扱われるから死ぬだとか、命って本来、そんなに粗末でつまらないものじゃないだろう。俺は聞いたぞ。お前が死ぬその瞬間、自分で何と願ったか覚えているか?」
 ヒナは、真っ赤になった顔で俺を見つめてくる。
「『生きたい』って言っていたんだ。『死にたい』なんて抜かしている奴の殆どは『穏やかに生きたい』って本当は願っているんだよ。ただ、その目的を生前に果たせないだけで」
「!」
 ヒナが驚いたように目を見開くのを見て、俺は続けた。
「よく聞け……願いは叶わなかったかもしれないが、最後にお前は生を全うしようと必死でもがいた。それはとても凄いことなんだよ。……間違いない、お前はこの世に生きていて良い存在だったんだ」
 俺はそうして、生前の彼女に対して祝福を述べた。
 目の前のヒナはしばらくじっと俺の事を見つめ返していたが、やがて目を伏せて大粒の涙を零した。
 俺は、蛙の体で彼女の肩に飛び乗り、耳元で優しく囁いた。
「辛かったな。でも自殺しないで、最後まで頑張ったんだ。偉かったな、雛子」
 ヒナ――十波雛子は、その場で声を上げて泣いた。

「落ち着いたか」
「うん」
 俺は、普段のあの人間姿に変化し、雛子の頬をそっと拭ってやる。その顔は酷く腫れ上がっているものの、どこか清々しささえ感じられた。
「でも、本当に成仏できるのかな? だって、人形神はもう完成しちゃった訳だし」
 俺は彼女の肩を軽く叩いてこう提案した。
「俺の中に、クタベ先輩から借りた霊力が未だ残っている。今からそれを全て使って、お前と人形神とを再び引き剥がしてみようと思う。一度分離しているお前なら、きっと――」
 そうだ。ヒナとのそもそもの出会いは、中町で俺が色々やった所為でもある。あの時は単なる偶然だったが、同じ要領で、今度は彼女を縛る呪いを空間ごと全て断ち切って無事に成仏させられないだろうか。やってみる価値は十分にある。
 俺は、彼女にその場に立つように促すと、少し離れた場所で俺は構えを取った。彼女の周囲を丸い球体が取り囲むイメージを思い浮かべ、それを実際に右手で切り取る動作を繰り返す。
「大丈夫だ、きっとうまくいく」
 俺のその言葉に、彼女がうんと頷き目を閉じる。俺は、右手を思い切り前に突出し、先輩が普段するのと同じ仕草を真似て、力を注ぎこむ。手のひらから光が溢れだし彼女の周囲を包み込むと、彼女の姿は歪んでは霞んでいき、そして突然消えてしまった。
 最後に見たのは、嬉しそうに笑う彼女の顔だった。

 ◇◇◇

 神様、私だけの神様。どうか願いを叶えて下さい。
 私の願いは――。

 ◆◆◆

「センポク、しっかりしろ!」
 耳元で響く覚えのある声に、俺はそっと瞳を開いた。目の前にいるのは、角を生やした白い獅子。
 そうか、戻ってこれたんだ、俺。ということは、うまくヒナを人形神と切り離すことができたってことか。
「先輩、心配かけて申し訳ないです。無事片を付けてきました」
 俺は起き上がり、中であったことを包み隠さず説明した。先輩も、十波がヒナと同一人物であったことには驚きを隠せない様子だったが、黙って俺の話を最後まで聞いてくれた。
「雛子、最後には笑っていました。色々あったけど、出会えて良かった。後は、無事あいつが地獄に堕ちずに彼岸まで逝けることを願うだけです」
「そうだな。辛かっただろうに、よくやった」
 先輩がそう言って俺の頬を優しく舐めてくれる。俺はその時ようやく、自分が泣いていたということに気が付いた。

 ――もう一度ヒナにあいたい。彼女に、此岸の素晴らしさをもっと教えてやりたかった――

「センポク!」
 先輩の怒号に、俺ははっとして意識を取り戻した。だが、右手の平から立ち上ってきた黒い煙が一瞬にして広がり俺の腕を渦になって包み込んだかと思えば、そこから大きな稲妻が何本も走り、俺は思わず目を閉じる。まさか、人形神を未だ消し切れていなかったのか!
 右腕に重い感触を覚える。衝撃や痛みが引いてきて目を開けた俺は、自分の前にある光景が信じられなかった。
「……これは?」
 俺が右腕で抱え込んでいるのは、今し方彼岸へ旅立ったばかりのヒナ――十波雛子その人だった。

 ◆◆◆

「先輩、そちらの方はどうでしょうか」
 俺は、真向かいに座るクタベ先輩にそう問いかけた。俺よりも遥かに霊力の高い白き獅子は、怪我も回復して平時の通り人型となっている。
「どうもこうも、進展無しだ。今のところ十波雛子を成仏させる方法は思いつかん」
「そうですか……」

 あの日何が起きたのか。
 俺は十波雛子を無事成仏させた筈だった。だが、立山で俺の右手に僅かに付着していた人形神の残滓ともいうべきもの。それが、俺の心の奥底に存在したヒナに対する執着心に反応し、彼女を再びこの世に引き戻した――恐らくそういうことだろうと、俺は後ほど先輩から説明を受けた。
 この世の理を全て捻じ曲げてしまうほどの人形神の呪い――人間の欲望が集結した力にも恐怖したが、何よりも、死者を無事彼岸へ送るべき筈の存在である俺が、よりにもよって彼女を無理やり此岸へ引き摺り戻してしまったことがショックだった。
 俺の願いのせいで、今や十波雛子は人間でも霊でも妖怪でもない、この世にとって異質な存在へと変わり果ててしまった――。

「先輩、雛子は今どこに?」
 俺は、十波雛子の所在を尋ねた。
「ああ、今はみくりが池の畔にいるよ。どうしても冬の立山を見てみたいときかんからな」
 あいつ、また!
 俺は急いで先輩に頼み込み、転送術で小屋の外へと出してもらった。

 俺達二人の前に広がるのは、どこまでも澄み切って濃い青の空と、それを切り取る純白の稜線、所々から僅かに覗く黒い岩肌や木々の三色が織りなす何とも例えようが無いほどの美しい世界だった。
「綺麗……まるでこの世のものじゃないみたい。冬山も良いものね」
「それは解るんだが、どうしていつもこうやって外に出るんだ。連れ帰る側のことも考えてくれ」
 感動の声を上げる雛子に、俺は思わず溜息を漏らす。元気を取り戻してくれたのは嬉しいが、こう毎日外出されると骨が折れる。
「センポク、前に話してくれたよね。立山は、地獄がこの世に存在する場所だって」
 突如話しかけられて俺は動揺した。ああ、あの時のことか。
「……私ね、センポクに謝らないといけないことがあるんだ」
 そう彼女から打ち明けられ、俺は思わず身構える。
「成仏する直前、人形神にね、こっそりお願いしちゃったんだ。旅立つ前、立山の美しい『地獄』を、この目で見てみたいって」
 その告白に、俺は酷く動揺した。こんな事態になるのなら、あんなこと言わなければ良かった。
「センポクは全然悪くないよ。元はと言えば、呪の力に頼った私がいけないんだ」
 俺の心を読んでか、彼女がそう笑って返す。
「夏が来るのは七月か、まだ随分先だね。……ねえ、センポク?」
 彼女が俺の顔を覗き込んでくる。
「お願いします。どうか、貴方が言う『地獄』を、私に見せてはくれませんか?」

 ◇◇◇

 神様、私だけの神様。バイバイ。もう私は大丈夫。願いは無事叶ったよ。

 そして、私は『地獄』へと来た。

<END>