みちる

<創作> <読み切り> <サスペンス> <ショートショート/文字数:3,922文字>

公開日:2012/08/25
アンソロ再録(イベント名「暗匣茶会~Black Boxed Tea Party~」)
お題:水


 その時、私の心に一つの滴が落ちた。そしてその滴は、予め水で満たされたコップを溢れさせるがごとく、私を一つの行動へと駆り立てた。

 ※※※

 全く、面倒なことになった。まさか結婚を迫られるなんて。一昨日の喧嘩を思い出して、俺は独りごちた。
「どうやったら丸く収められるか、だな……」
 オフィスにはもう山田が来ているだろう。あいつとはどういう顔をして会ったらいいか分からない。今更後悔しても遅いが、部下と不倫なんてするもんじゃないな。
 懐の携帯に着信があった。送信元は山田からだった。
『貴方が奥さんと別れないのなら、全てを会社に公表します』
 一瞬思考が止まった。慌てて周囲を見回すが、あいつの姿は無い。
「おはよう。山田君はまだ出社していないのか?」
「さあ……もうとっくに出社時間なのに連絡が無いんだよね」
 同僚からの返事に、焦りながらも自分のデスクに戻った俺は、パソコンのメールボックスに一通のメールが来ていることに気付いた。山田からだ。
『決心は固まりましたか? 私を本当に愛しているなら、今すぐに奥さんへ別れると告げて下さい』
 何の積りだ。呆れた俺はそれを削除しようとしたが、添付されていたファイルの中身が気になり開いてみた。途端、画面いっぱいに「愛している」というメッセージが踊り、こちらの操作を全く受け付けなくなった。これは……。
 携帯にメールの着信があった。山田からだった。
『私は本気です。貴方が私を選んでくれないのなら、手段を選びません』
 このアマ。逆上した俺は即座に電話をかけたが、あいつは全く出ようとはしなかった。頭の中は沸騰していたが、上司が怒りの形相で俺に近づいてくるのを見て、背中に冷たいものが流れるのを感じた。
「君の端末からウイルスが転送されてきて、このフロア全体に広がったよ。どう始末をつける気だね」
 何てこった。落ち着いてフロアを見回してみると、社員が白い目で俺のことを見つめている。最も近い奴の端末画面を覗いてみると、俺のと同じように「愛している」という文字が画面いっぱいに表示されていた。俺は平謝りして、急いで担当部署に連絡を取った。

 先程の騒ぎをどうにか収めて、午後に取引先の企業で開かれる会議に参加するために、俺は駅のホームで電車を待っていた。それにしても面倒なことになった。山田の奴……。
 携帯にメールの着信があった。
『今日お召しになっているネクタイ、奥さんからプレゼントされたものですよね。遠くからでも良く見えますよ。山田より♪』
 その一文と共に、会社から駅へと向かう俺の後姿が写された写真が添付されていた。急いで周囲を見回してみたが、どこにも山田の姿が無い。再び携帯のバイブが鳴り、メールを開いた俺は顔から血の気が引いて行くのを感じた。
『そんなに他のことに気を取られていると、電車に乗り遅れますよ。安心して下さい。これからも私が奥さんに代わって、ずっと貴方の傍についていますから』

 それからの一ヶ月間、俺は山田からストーカー行為を毎日受け続けた。

 ◆◆◆

 ゆっくりと水を満たしていく。もう何回これを繰り返しただろう。時間だけがゆっくり静かに流れていく。やがて水は満ち、溢れ出して音が響く。
 納得のゆく結果を得られたことに納得すると、私は静かに笑った。もうすぐだ、あの人に決着をつけるのは。

 ※※※

「貴方。しばらく会社をお休みするなんて、一体どうしたの?」
 久しぶりに早く帰宅し、会社を休むと告げた俺に妻はそう問いかけてきた。仕方がない、俺だってそうしたくはないが、この一ヶ月の間にあの女が起こしたトラブルが元で、会社から自宅待機するよう命令されたんだから。
 本当の事を話す訳にもいかず、黙ってテレビを見ていると、妻がウイスキーとつまみをお盆に載せて運んできた。
「貴方、お中元にこのような物を頂いたわ。だいぶ疲れているみたいだし、これでも飲んで気を紛らわせたらどう?」
 確かに、これ以上追い込まれると完全に病気になってしまう。最初の事件以来すっかり頭が参って、精神科で睡眠薬を貰うまで悪化していたが、偶には薬の力に頼らず安らかに眠りにつきたいもんだ。
 俺はウイスキーを思い切りあおった。喉が熱くなる感覚に、ここ最近の憂鬱な出来事を忘れられるかもと期待した。
「貴方。急だけど、私今晩実家に行きますから、夕飯は先に食べちゃってよ」
 台所に引き返した妻の一言に、俺は疑問に思い声をかけた。
「本当に急だな。お義母さん、何かあったのか?」
「ええ、体調を崩したみたい」
 確かにこの暑さだ、老体にはさぞ辛かろう。俺はいいよと言って、更に酒を口に含んだ。
「明日、どこか出かける予定とかある?」
 妻が台所からそう訊ねてきた。冗談じゃない、あの女にどこで見張られているか分かったものじゃない現状で、どこかに出向く気力もない。それに、自宅なら一番安全だし、妻がいないなら猶のこと気も落ち着く。
「いや、特にないから家にいる積りだ」
「どなたか訪ねてくる予定は?」
 それもないと告げると、俺は次の杯をグラスに注いだ。今夜はペースが速いが、こんな事態だ、飲まなきゃとてもやっていられない。
「あら、そう。それじゃ、そのまま泊って明日の夕方辺りには戻ってくるので、留守をお願いしますね」
 妻はそう言いながら、作った料理と焼酎をお盆に載せリビングへと戻ってきた。今夜はやたらサービスがいいな、普段からこうしてくれれば良いのに。俺は頷いて、自分で焼酎の水割りを作り始めた。
 水割りを数杯飲んだところで、途端に気分が悪くなった。しまった、ヤケになって速いペースでチャンポンしたのがいけなかったか……。それにしても、今夜の酔い方はやたら眠気が強く出る。やはり相当疲れているんだろう。俺は少し横になると、ソファに横になった。風邪を引くかもしれないなとは思ったが、いつ会社に戻れるか分からないのだし、別に構わないだろう。

 ◆◆◆

 ゆっくりと水を満たしていく。これまでと同じ要領だ。やがて水は満ち、溢れ出してゆくだろう。これで全てが終わる筈。
 それなのに、私の心は何故か満たされないままだった。

 ※※※

 肩の辺りがやたら寒い感じがして、俺は目を覚ました。何だ、視界がぼやけているな。それに下半身が変な感じだ。まるで、何も身につけてはいないような。
 俺は妻の名を呼んだ。気配を感じたので仰ぎ見ると、驚いた表情の妻がそこにいた。何だ、傍にいるなら返事くらいしろよ。慌ててその場を離れる妻をどこかでおかしいと思いつつ、俺はまず自分がどういう状況にあるのかを確認しようとした。
 焦点が合ってくると、目に飛び込んできたのは見慣れたタイルの壁面。そこにシャワーヘッドがあったことで、自分は浴室にいるのだと理解した。そして俺は何時の間にか裸になっていて、浴槽に半分身を沈める格好となっていた。先程から変だと思っていたのはこれだったのか。でも、リビングからどうやってここに?
 妻が戻ってきたので、俺は何が起きたのか訊ねようとした。
 その瞬間だった。
 突然女房に抑えつけられ、口に何か押し込まれた。そのままなす術もなく液体を飲まされ、俺は激しくむせたが、妻の手から逃れることはできなかった。助けを呼ぶ間もなく次の液体を口の中に注ぎこまれる。次第に意識が混濁していく中で、視界の端に映ったそれを見て、自分が今飲まされたのが度数の強い酒だということを知った。
「……あなたが悪いのよ」
 妻が呟くのが聞こえた。俺は相変わらず無理やり酒を飲まされながら、妻が涙声で俺を罵るのを聞いていた。
「あなたがあんな女と浮気するから。最初は、相手に引き下がって貰えば良いと思って、一か月前彼女に会ったわ。まさか殺しちゃうとは思わなかったけど……」
 そうか、あの女をどれだけ探しても見つからなかったのは、既に死んでいたからなのか。
「自首しようか迷ったけど、あの女の携帯に残っていた貴方からのメールを見て気が変ったわ。だって、私には優しい言葉をかけないくせに、あんな小娘には易々と愛を語るだなんて……。許さない。あの女もだけど、貴方の裏切りはもっと許せない。だから、徹底的に追い詰めてやろうと思った」
 濁った意識の中で、俺はこれまでに起きたことを整理しようと努めた。
 一か月前から悩まされた、山田からのストーカー行為。だが、山田はその時既に殺されていたのだから、実際に俺を付け回していたのは実は妻。あの女からのメールなども、妻が彼女の携帯とノートパソコンを所持して偽造工作していたとするならば辻褄が合う。つまり、俺は俺を苦しめていた犯人とずっと同じ屋根の下で暮らし続けていたってことだ。

 全く、何て真実だよ……。

 俺は助けを呼びたかったが、散々アルコールを摂らされたことで、体の感覚が殆ど麻痺してしまい、呼吸するのでさえしんどかった。
 俺は妻に再び体を抑えられると、口が浴槽の端よりも下の位置に来るようにずらされた。そして、浴槽の蛇口が捻られ水が流れ出す音を聞き、戦慄した。
 俺は、この状況に良く似た場面を知っている。よくドラマとかで、泥酔して風呂で溺れ死ぬ間抜けな奴がいるが、まさしく今の俺がそれだ。このまま水が満ちれば俺は死ぬ。何とかしてそれを回避しようともがこうとするが、体が全く言うことを利かない。このまま酔いが醒めるのを待っていたら、俺は……。

 ◆◆◆

 水音が後ろで響いていた。自分が選んだ決着の付け方だったのに、あの人を最期眠らせたままにしておくのがどうしても納得できなかった。でもさっき、あの人の怯えきった顔を見たら、心の中で激しく波立っていたものがすっと静まり返った。これでいい。後は外に出ている間に、水が満ちるのを待てばいい。
「愛しているわ、貴方」

 溢れる思いは止められない、そう、誰にも。

<END>