興味の行方

<創作> <頂き物> <恋愛> <短編/文字数:10,464文字>

公開日:2006/12/16


「危ない!」
「……は?」
 振り向く間もなく突き飛ばされた。庇う余裕なんて何処にもなく手をつきヒザをつき、むき出しの肌が滑って切れた嫌な感触だけが残った。
 アスファルトへ転がる私の耳元に届くのは何かが空を切る音、一つだけ。思わず浮かべた涙をそのままに振り返れば、今までいた空間に、木片のようなものが振り下ろされていた。
「早く、逃げて!」
「……えっと……?」  同じような空間を木片は行き来する。振り下ろしているのは、街灯の薄暗い光の中でははっきりしないが、さほど背も高くない。……高校生くらいの少年に見えた。
 少年は木片で何かを受け止めたように動きを一旦止めると、器用に身体を捻って私に背中を向けた。少年の前、街灯の真下に当たる空間には、ただ、光が落ちている、だけ。
「早く行け!」
「あ、え、う、うん。はい……えっと……じゃぁ」  煮え切らない返事を返している合間にも、少年は目の前の空間をにらみ据えていた。ざらざらのアスファルトに落ちる頼りなく時折明滅する光の輪を。
 焦ってイイモノやら、とっつかまえて問い質してイイモノやら頭の中には『?』マークが溢れていたが、ふと灯りなくしては見えない腕時計の文字盤が目に入った。――最終バスの時間が近づいているはずだった。
 突き飛ばされついでに散った荷物をかき集めて、立ち上がって埃を払う。ヒザと手のひらからは、懐かしくも有り難くない痛みがわき上がりはじめていた。
「やぁっ!」  文句でもと振り返り……今度は気合いを入れるかけ声と共に木片を振り下ろす姿を見て、辞めた。これ以上、関わり合いにならない方が良いだろう。バスの時間も気になる。
 街灯がなければ視界にも苦労する畑と民家の間の道をカバンを抱え直して歩き始め、遠く終バスのクラクションが聞こえて小走りになる。車内の明るい灯りの下で、ティッシュで滲んだ血を拭き始める頃には、冷静にむかつきはじめていた。こんな時間にバスに乗るハメになった原因とじくじくいたむ傷をこさえてくれた少年とに。
「……私が何したってのさ」  人気のない車内で、つぶやきは誰に聞かれる事もなく、消えた。

 この歳で絆創膏もないとは思わないでもなかったが、包帯なんて大げさなものにする必要もなく、まして湿気た空気に夏の陽射し照りつける中長袖を着込む気にもなれなかった。その結果がこの状態であったが、まぁ、この程度なら仕方がないと溜息をつくくらいで済む。いや、絆創膏のほうに気を取られてもっと大きな変化に気付かず、後回しにされている分だけましなのかも知れない。
 講義の前に会う友人会う友人に絆創膏の説明をしながら、頭の片隅でそんな事を考えていた。もっと大きな変化、講義の前では見えにくいかも知れないけれど、終わりさえすればきっと一目瞭然な事――コバンザメのように何彼となくくっついてきた『存在』が消えた事。
 ――私が何をしたってのさ。
 講義を右から左に流しつつ、板書を機械的にルーズリーフに写すだけの作業の合間に、やはり思考はそこへ落ち込んだ。肘の痛みも、思い出すだけのものでしかなく、講義に身なんて入るわけがなかった。

 付き合ってみないかと言い出したのは向こうで、僅か2ヶ月前の事だった。一般教養で同じ講義を取っていただけの他学部の学生で、軽音楽部に所属していた。
 顔見知り程度の男性に突然呼び出されきょとんとしている私に言ったのだ。
『お互いを知るために、付き合ってみるってのはどう?』
 可愛いと思っていた、とか、理学の物理なんだって、とか、頭良いよね、とか、駅前のコンビニでバイトしてるよね、とか、気になってたんだ、とか、今、フリーだよね、とか……。顔しかお互い知らない状態なのに、よくもまぁ知ってるものだと半ば感心しながら、NOと言い張るだけの理由もなく、それならとYESを伝えたのだ。
 アイツに関しては少し格好いいと私でさえ聞いた事があった。実際顔も良いし、優しくて、けれどいわゆる優男ではなく、何かとリードしてくれる男らしさも持ち合わせていたように思う。聞いていた事は実感を持って認識され、格好いいのだなと納得した。
 ついでにアイツはマメだった。私の講義の終わる時間に向かえに来たり、実験が終わる頃を見計らって来たり、バイトが終わる時間も把握していた。帰りは車を出してくれて、駅までの十数分をおしゃべりで過ごすのが日課だった。
 アイツのライブにも何度か足を運んだ。『彼女』としての義務だと思っていた。あんまり好きな曲調ではなかったけど、そこは私がとやかく言うところでもない。
 順調だと、こんなもんだと思っていた。休日もなく研究室に通う私にはそんな時間なんて何てなくて大して進展などしなかったけどそう不満そうでもなかったし、結婚なんて言葉考えた事もなかったけれど、空気みたいで悪くはないと思っていた。このままで良いよと言ってくれたのはアイツで、だから私も気楽につきあえた。
 始まりと同様に、一方的に別れを告げられるまでは。

 チャイムが鳴って右耳に入る睡眠導入剤のような声が途切れると、友人達は思考の淵にはまりこむ私の周りで早くもその些細な異変に気付きはじめた。ばらばらとテキストをしまい込む動作の傍ら、私の頭の上で会話をはじめる。
「野間君は?」
「あれ? 今日は来てないね」
「小百合、野間君は休み?」
「合宿とか遠征?」
「えー。まだ試験も始まってないのに?」
 音に急かされるように荷物をまとめはじめる。どう答えればいいものやら。
 実際私は、口に出したくないほど落ち込んでいるわけじゃない。あんな時間まで引っ張って終バスに駆け込むハメになったのはちょっとむかついてはいたが、落ち込んでいるわけではないのだ。……むしろ、その事実のほうがよほど落ち込む。そして、過去の経験から想像できる友人達の反応も……気が重くなる原因では、ある。
「振られた」
 テキストをカバンに放り込む。かちゃかちゃ音を鳴らして、ペンケースをその上から落とした。撤退準備完了。
 そんな私の周りは、逆に凍り付いたように無音になっていた。
「え……」
「小百合ちゃん……」
「だ、大丈夫よ、小百合、可愛いんだしっ」
「あっちに見る目がなかったのよ!」
 ほら。見えないようにこっそりと溜息をつく。そして、唯一同じように溜息をついた中学時代からの友人、千奈美と目配せし合う。
 溜息の訳は、私は落ち込んでいるだろうと励まそうとする人達には分かるまい。
「みんなありがとう、でも、大丈夫だから」
 笑顔もうまくなったと思う。引きつらないで笑えていると思う。心の片隅で、ゴメンナサイを言いながら。
「それより、食堂行こうよ」
 カバンを持って皆を促す。私たちの講義は今日はコレで終わりだが、教室は次も埋まっている。とにかく移動したかった。
「中嶋小百合!」
 は? 私の名だった。机の間をすり抜けようとした中途半端な格好で、探すまでもなく声の主は見つかった。主は階段教室の一番下、黒板脇の扉の側に出ていく人たちの邪魔そうな視線を一心に浴びながら立っていた。……視線は声の主を経由して私の方にまで飛んでくる。
 仏頂面の高校生のような童顔の男性だった。背もあまり高くない。リュックを片方の肩に引っかけて、その腕には大きな平たい袋を持って、空いた片手には小さな袋。
 顔に見覚えはなかったが、声と小柄な影には覚えがあった――あれは……高校生ではなかったのか。
「佐々木さんじゃん」
「え、あれが?」
「佐々木……佐々木克巳?」
「小百合、何したの?」
「……知ってるの?」
 思わず振り返った私の視界の隅で、私の姿を認めたらしい佐々木は、つかつかと教室へ入ってきた。
「……知らないの?」
 真顔で髪の先まで気を遣ってますとばかりの真澄の大きく見える目にまじまじと見つめられて、ちょっと居心地が悪くなる。知らないものは知らない。
「経営の院生、佐々木克巳。ちょっとした有名人だよ。……小百合が知ってるとは思えないけどね」
 助け船は千奈美が出してくれた。感謝しつつ、私は耳を疑った。……院生?
「中嶋小百合。忘れもんだ。あんたのだろ?」
「え、あ、はい」
 すぐ側まで来ていた佐々木が差しだしたポーチは、確かに私のものだった。……なくしたからと言って取り立てて騒ぐほどのものでもないし、使う時期でもなかったから気付かなかった。
「……ありがとうございます」
「もうあんな夜道、一人で歩くなよ。じゃな」
 真っ直ぐ私を見てポーチを押しつけるように渡してくると、くるりと振り返って去っていく。
 ……案外まともな感じがした。
「小百合、夜道って何!?」
「……その前に、移動しようよ」
 ばらばらと入ってくる次の講義の受講者達をかき分けて、廊下へ出た。受け取ったポーチは確かにほつれているなと思いながら、カバンの中に押し込んだ。

 佐々木克巳が何者かという情報については、その後の一時間で嫌と言うほど叩き込まれる事となった。
 あんな形(なり)をしているクセに院生……ストレートでも二十二歳を超えているということ。剣道部主将だったこと。今も在籍はしていて、破格の強さを誇るらしいこと。何故か美術部にも在籍していること。学校祭のここ数年のポスターは彼の作品らしい。持っていた巨大な薄っぺらい袋は、おそらく美術部の作品だろうということ……時期的に学校祭ポスター用の絵かもしれない。
 そして、奇妙な噂――霊感青年ではないかというものだ。
 噂好きのレミは目を輝かせて話した。
「誰もいなくなった校内で、何かと話をしているらしいの。超常研の連中が追いかけ回してるらしいんだけど、美術部と剣道部のガードが厳しくてね。真相は未だ闇の中とかっ」
 ちなみに、レミの愛読書はファンタジー小説とライトノベル。オカルト系はその中でも中心軸近くに入る。
「噂はおいといて、インカレで全国出てるし、美術展でも入賞してるからね。有名人だよ」
 千奈美はほんの少し呆れた視線をレミへ送り、続けた。
 私は懸命に昨年の学校祭ポスターを思い出そうとしていた。……ビルが建ち並ぶ明るい街の中を、妖精や龍や奇妙な生物たちが人間以上に我が物顔で飛び回るような絵だったか。……珍しく覚えていたのは、そのアンバランスな筈の風景とキャラクターが妙にしっくりと馴染んでいたからだ。有名人と言われれば、なるほどと思わないでもない。
「にしても……あんたの有名ぶりも見事ねぇ」
 カップに付いた口紅をちょっと気にしながら、真澄は言った。
「……知らないわよ」
 適当に選んだ席は失敗だった。暑い。浮かんだ汗を手の甲で無造作に拭った。隣に座ったレミは、可愛らしいハンカチで押さえるように額の汗を取っている。
「なに言ってんのよ、よっ、裏ミス」
「勝手に言ってるだけでしょ」
 学校祭のミスコンの裏で行われる裏ミスコンテスト。立候補、推薦者を必要としない男子学生のお祭りでどうも優勝したらしいと聞いた、が。そんなこと私の知った事ではない。……フルネームで呼ばれるとは思いもしなかったけれど。
「ね、夜道って何の話?」
 レミが目を輝かせて迫ってくる。……面倒だけど、話さない限り離してはくれないだろう。
「……終バスに乗ろうと思って歩いてたら、突き飛ばされたの。ポーチはその時に落ちたみたい」
「なんで?」
「こっちが聞きたいわよー」
「ちゃんとそういうのは確かめなくっちゃっ!」
 レミに可愛く小首をかしげられたって、知らないものは知らない。
「終バスギリギリだったし」
 不満そうだろうレミの顔を避けて、視線をグラスに落とした。
 興味がないと言えば嘘になる。けれど、研究室に泊まるリスクと引き替えるほどのものではなかった。というより、君子危うきに近寄らず、だ。
「つまんないのー」
「つまんなくて結構。……そろそろ行くわ、私この後ゼミだから」
 不満の声を上げたのはレミだったが、真澄も千奈美も似たような顔をしていた。三人を一瞥しただけで立ち上がると、無表情なチャイムが響き渡った。
 うんざり顔に変わる真澄もこの後は研究室だったはずだ。千奈美はバイト。レミも家庭教師バイトが入っていると言っていた。……対して私は多分ほんの少し、顔がほころんでいたかも知れない。
「……何でゼミがそんなに楽しいのかね」
「楽しいじゃん。じゃね」
 あきれ顔の三人に軽く手を振って、トレイを持って席を離れる。
「野間君にもそれくらい楽しそうに接してあげればよかったのに」
 真澄のつぶやき声が最後に届いた。

 教授がゼミの終了を告げれば、メンバーは三々五々散っていく。そんな中で私は、研究室の院生、田宮先輩の許可を取り端末にさっそく張り付いた。ゼミで話題になったシミュレーションが気になって、いてもたっても居られなかった。野間君が来ないと分かった事で、気が楽になったのもあるかもしれない。終バスまでという時間制限はあるものの、集中できるのが嬉しかった。
 人気の減った研究室の中は静かだった。かちゃかちゃ響くキータッチの音と、田宮さんが置いたラジオから流れるジャズが密かに流れているだけだった。
 その空間に、カツカツ机を叩く音を混ぜたのは私だった。テキストに沿って組んだはずのプログラムがうまく動かない。綺麗な放物線を描くはずなのに、エラーで途中で停まってしまう。何処がいけないのだろう。眺めても間違いはないように見えるのに。
「……LとI、間違ってない?」
「はい?」
「ほら、ここ……スペル違うよね」
 正直、飛び上がるかと思った。いつの間にか真後ろに立った田宮先輩が、空いたマウスで単語を示した。"Value"と"VaIue" 先輩の言う通りだった。何故、こんなミスタイプをするか自分で自分が情けない。
「わかりにくい変数は使わない方が良いよ。……ほら」
 リターンキーを一つぽんと押せば、太陽の重力崩壊をシミュレーションしたグラフが描かれていく。……綺麗な放物線だった。
 レミが聞いたら首をかしげるだろう。真澄だったら頭を抱えるかも知れない。千奈美なら溜息付いて言うだろう。『小百合って、面白いよね』 ……残念ながら、私はいたって真面目だ。
 点の集合に見惚れる私へ、千奈美よりずっと低い、けれど太くはない声が同じ言葉を告げた。
「中嶋さんて、面白いね。こんなグラフが綺麗だなんて」
「え、だって、こんなに綺麗なラインに並ぶなんて感動的じゃないですか」
 単純な方程式なら道理だろう。しかし、幾つもの数式から導き出される非線形方程式だ。こんなに綺麗に並ぶのは奇跡に思えて仕方がない。不思議すぎて感動しさえする。
「……僕には、中嶋さんの方がよっぽど綺麗だと思うな」
「……は?」
 思わず振り返った向こうで、眼鏡の奥の細い目が、柔らかくアーチを刻んでいた。
「彼氏と別れたんだって? ……今度は僕と付き合ってみない?」
 また、NOと言う理由はどこにもなかった。

 *

 付き合うといっても、田宮さんは穏やかで、学会準備も重なって、もっぱら研究室デートが定番となっていた。学会に一緒に行かないかと誘われて、試験と重なっていて断ったくらいで、何が変わるわけでもなく日々が過ぎていった。……変わったと言えば、分からない点を教えて貰いやすくなった事だろうか。田宮さんの主研究テーマでもある流体力学は私には難解で、難解すぎて、聞いてもさっぱり分からないほど難解だったから、よく聞いて、小突かれ、呆れられて、良い本を紹介して貰ったりした。付き合うようになって、よかったと素直に思えた。
 試験が始まれば、一週間は帰って来れない学会事情や、単位を稼ぐのに必至な個人的理由もありなかなか会う事は出来なかったけれど、夏休みには研究の為のテーマをもう少し絞る事にもなっていて、また沢山会えるだろうと考えていた。……研究室デートはきっと変わらないだろうけれど。
 学内で美術展のポスターを見かけるようになったのもその頃からだった。佐々木は有名だと皆が口をそろえる通り、案外目立つ存在だった。このポスターの団地群と抜けるような青い空の合間の不可思議な生き物たちも佐々木の作品だろうし、ポスターの横の、全国大会出場の張り紙も目立っていた。
 しかもそればかりでもなかった。ふと目をやれば校舎の影、屋上の隅、ぐるりと外周を巡るマラソンコース、人気のない暗がりのそこかしこに、イーゼルを広げ、胴着にタオルをひっさげ、荷物に背負われそうになりながら、佐々木の姿があった。目を惹く存在とでも言うのだろうか。……いや、そうではない。多分、どこか浮いているのだ。その姿のどれもが他の人が見ていないどこかを見ているように思えたから。
 何処を見ているのか分からない様は、試験監でも遺憾なく発揮されていた。

 一般教養講義の通常ならレポートで済ますような講義を、その教授はしっかり試験スケジュールに組み込んでいた。むざむざ単位を落とす気もなく講義室に出向いてみれば、アルバイトの試験監は佐々木だったわけだ。
 小柄な佐々木も一人立って歩いていればそれなりに目立つ。最後部の席を確保した私が悩みつつ顔を上げれば、時折回答具合をのぞき見しつつ、イマイチ視線が定まらない佐々木が講義室を巡回していた。
 驚いたのは、視線の先というより、明らかに視線が届いていない場所での不正を見つけたことだろう。その時佐々木は私の列のまん中より後を歩いていて、視線は教室背後の窓の方を向いていた。さすがに目を合わせるのは気まずいと思い、問題用紙に目を戻した辺りで、佐々木の足の向きが変わった。ぶらぶら見回るという風ではなく、目的地を見つけて一直線に向かうように。
 そろりと目を上げた前で、最前部の学生と小声で何かやりとりしているのが見えた。……学生はその後、足音荒く荷物を抱えて出て行ってしまった。
 カンニングが発覚したのだろうと、まぁ、想像はついた。しかし……どうして後を向いていた佐々木が、最前列の学生の手元を見れたというのだろうか。

「振り返った瞬間に見えたんじゃないの?」
 千奈美は冷静にコメントした。
「佐々木さんって、不正発見率9割超えてるのよ。情報収集甘いわねー」
 勝ち誇っているのは試験に手応えを感じたというレミ。
「それって、本人がカンニングの常習犯ってやつでしょ」
 対して真澄は天気のせいか、終わったばかりの試験のせいか、メイクもヘアブローの具合もイマイチだった。
「そんな感じしないんだけどなぁ」
 確かに窓の外、今にも降り出しそうな分厚い雲を眺めていると思ったのだ。事実、振り返ろうと行動を起こす直前まで、退屈そうな足取りだったのだから。
「幽霊に教えて貰ってるって噂もあるわ」
 これまた嬉しそうにレミは言う。……私は苦笑いにとどめておいた。
 実際、気にしだしてから二~三週しか経っていないにもかかわらず、そういう噂が立つというのも分からないではなかった。……噂だとは思うけれど。
「ほんと、何見てるのかわかんない御仁だよね。あの人、同じ場所でイーゼル構えてても、違うもの描くんだよ」
 千奈美は美術部だった。過去にそういう経験があるのだろう。
「あぁ、そんな感じ……」
 そう、その言い方が一番しっくり来た。何処を見ているというより、何を見ているのだろう……。
 視線の先で、胴着を着込んだ集団が、かけ声と共に通り過ぎていった。小柄な佐々木は同じ胴着を来ていてもどうしても見分けられてしまう……やはり浮いていた。
 あれ、と思った時には集団は既に通り過ぎていた。試験の出来を嘆き合う3人は気付かなかったようだった。私も気のせいかと思わないでもない。よほど注意していなければ、ガラスを隔てた向こう側に誰がいるかなんて分からないものだ。……目が合った気がしたなんて。
「……で、なんだと思う?」
 真澄の声で輪に引き戻された。話題は既にべつのものに移っていた。
「え?」
「えじゃないわよ、そろそろでしょ、彼氏が帰ってくるの」
「あぁ、そうね」
「お土産、なんだろうね?」
「ちんすこうならおこぼれ頂戴ね」
 言いつつ真澄もレミもトレイを持って立ち上がる。時計を見れば、確かにそろそろ着く頃合いだった。
 慌ててトレイを掴んだ私のシャツの裾を千奈美がちょいと引っ張った。
「……真面目に付き合ってあげないと、田宮先輩、可哀想だよ」
「え?」
「なんでもない。行こうか」
 きょとんとする前で、千奈美はさっさと真澄たちに追いついていた。

 千奈美の言葉は予言だったのだろうか。ちんすこうの大袋を前に、涙する田宮先輩と対面するハメになった。見苦しいという程でもないけれど、泣かれた立場の私としてはどうすればよいと言うのだろう。
 またかという思いと、どうすればよかったのだろうという悩みと、無理にでも好きになる事が『付き合ってみる』為には必要なんだろうかという迷いが渦巻いていた。……好きにならなければならないのなら、多分、断る方がマシだったろう。
「ずっと考えていたんだ。付き合っている間、君は僕の事を少しは考えてくれたろうかと。一緒に来てくれないのも残念だったけれど、試験もあるし仕方がないとは思う、じゃぁ、電話とか、メールとか、他にも連絡の手段はあったはずだし。おやすみメールとかそういうのは僕だってうざったいと思うけれど、そもそも、せいぜいリプライくらいしか連絡はないし。僕は君の事を知りたいと思っていたけど、君は……」
 返す言葉なんて、何処にもなかった。哀しいと思う前に、申し訳なくなってくる。
 ……そもそも、先輩の事が知りたいとか思った事は……最初からなかった。野間君のことも、それまで付き合おうと言っては一方的に別れを告げていった幾人もの男達の事も。
「僕は君の好き嫌いの対象にすら入っていなかったんだね。……ごめん、泣いたりして。勝手に言い出して勝手に言うけれど……別れよう。明日からはまた、単なる先輩後輩でいよう」
 無理に笑う先輩に、心の中で精一杯謝る事しか出来なかった。

 興味って何だろう。好意ってなんだろう。
 それは無理に持つものなのだろうか。
 彼女になったら、彼氏の事を好きにならないといけないのか、では、好きになる見込みがないなら、そもそもOKしてはいけないのか。
 けれど、付き合ってみなくては好きもなにもないのも事実で、付き合う、付き合わないのラインは、一体どこにあるというのだろう。
 試用期間みたいなものがあればいいのだろうか。そもそも『お友達から始めましょう』ってのが妥当な気がする。でも、田宮先輩とは先輩後輩の関係から始めていて、『お友達から』の時期は過ぎていたと言えなくもない。
 先輩のことは嫌いじゃなかった。ある意味では野間君よりよっぽど好感が持てた。少し気が弱い感じはあったけれど優しい人だし、頭もよかった。研究室が同じと言う事は共通の話題もあったし、いつも流れてくるラジオは嫌いじゃなかった。
 けれど、それと彼氏彼女の好き嫌いはべつのものだったと言う事か。そもそも私がOKしたのが間違いだった……。

 先輩が帰った後のコンピュータの音ばかりが響く研究室で、気付けば終バス間近になっていた。
 思わず漏れた息と共に、持ち込みOK資料の詰まったカバンを取り上げる。ちんすこうはそのままに、研究室を施錠した。
 裏ミスなんてものに選ばれてから、スキあらば声をかけてくる男が増えたのは事実で、よく知らない相手から『付き合おう』と言われる事もままあった。今度からはきちんと断ろうと、心に決めた。

 *

 民家と農地の隙間の、街灯だけが頼りの細い道を急ぐ。結局また、この道だった。
 いつも人気のない道は今日もやはり無人で、街灯のぽつぽつ落ちる円を辿るように急いだ。
「危ない!」
「……」
 サイドステップでその場を退いた。思った通り、私が進むはずだった場所に木片が振り下ろされる。小柄な影が舞った。
「早く、逃げて!」
「……」
 さらに数歩下がった。手の届く範囲に人がいては、立ち回りに邪魔だろう。
 静観体制に入った私へ、面倒くさそうな視線が一瞬だけ、飛ぶ。
「早くいけ!」
 ……従わなかった。
 佐々木は思った通り、一人で舞っては木片を振った。木片が真剣や木刀ならば、演舞しているように見えたかも知れない。……優雅さより真剣さが伺えたが。
 舌打ちした佐々木に構わず、しげしげと眺めてしまった。突然一人で演舞をはじめれば、はっきり言って少し近づきたくない人だ。けれど、何かが見えているとしたら。
 何処を見ているのか分からない視線。見えているかのように描かれた人外の生物たち。見てもいないのに暴く不正。
 この人は、一体何を見ているのだろう。
 この人の目には、一体何が映っているのだろう?

 遠く、終バスの警笛が過ぎていった。

「なんで、行かないんだ」
 大汗をかいた佐々木はかみつく気力もない様子で私の方をじろりと見た。
「え、あの……なんというか……」
「分かってないだろうけどな、やばかったんだぞ! 終バスだって行っちゃったし」
「佐々木さんは、バスには乗らないんですか?」
 我ながらとんちんかんな事を聞いたと思う。
「俺はもともと歩くつもりだったからいいの」
 けれど、佐々木は真面目に答えた。
 面白い人だと、思う。なんだろう。行動もそうだが、なんというか……もしかして少しばかりずれているのではないだろうか。
「あの、私も歩きます!」
「……遠いぞ?」
「構いません!」
 何を言ってるんだか、何だか自分で分からなくなっていた。肩に食い込むカバンは決して軽い訳じゃなく、駅まで四キロほどはあるはずだった。……いつもなら、遠慮願いたい距離だ。
「中嶋小百合」
「は、はい?」
「……あんた、変わってるな」
 薄い闇の中で、佐々木がふと笑ったのが分かった。
 暗い道でも迷うことなく、すと振り向くと歩き始める。……歩みは意味不明の蛇行を繰り返していたが。
「佐々木さんこそ、変わってるって言われませんか?」
「俺は変人で通ってるらしいけど」
 慌てて追いついて、並んで歩く。覗いてみれば、せわしく動く視線の先にはやっぱり何も見えなくて。
「あの……!」
「何?」
「……お友達になってもらっても、良いですか?」
「……はぁ」
 否定ではなかったから、OKと取る事にした。

 この変人に、興味があった。

<END>
森村直也様より サイト相互リンク記念に頂きました。ありがとうございます。